伊豆市八幡、関野、地域寺院;と歴史雑記


記載内容重複する部分ありますが

保福院、かつて町屋のおおでらと言われた時があったそうです。

何回となく水害、災害にあい、

規模は縮小していきました。

それでも

昭和三十三年の台風で流出するまで中島にありました。





この台風では寺院の施設墓地、立ち木一切が跡形も無くなくなり

寺のあったいったいは、瓦礫の山、荒野の河川敷のようになってしまったそうです。

何度と無く災害に襲われ今のようになっています。

昔の(中島に寺があった)面影はまったくありません。

(:現在、保福院は、市内八幡法華堂に移転しています。)





八幡地域の寺について

八幡に寺が多くあったのは

     水 陸 山 宝 泉 寺 、 明 治 六 年 廃 。
  養谷山泰安寺、現在十王堂、浄土系廃寺年月日不明 。
本引寺、地名のみ存す、廃寺年月日不明。
 普 照 山 心 月 寺 、 最勝院末、明治六年廃。
太平山自性院、曹洞宗最勝院末、明治六年廃
    如 意 輪 寺 、 廃 寺 年 月 日 不 明 。
 
山本、如意輪寺と関係あるのかも知れない。

(何の為に)寺(城)を守る為の(砦)の可能性があるかも知れない。

来宮神社も如意輪寺の一部であった可能性もある。


地域に遺跡、寺跡、石仏、五輪塔等たくさん確認できます。

中伊豆町教育委員会 神社寺院誌 宗教石仏編 に記載あり。




水陸山宝泉寺 跡 遠景、(国清寺末)明治六年廃




正面保育園の(赤い屋根)の右側手前に墓地が残っている。




廃 自 性 院 跡 



寺のあった場所と推測されるところは現在、

住宅地や駐車場になっています。




養谷山泰安寺、(浄土系廃寺年月日不明。

現在十王堂




建物(十王堂)は現在の中伊豆中学校グランド内にあった。




八 幡 法 華 堂 界 隈







法華堂、保福院の裏に山道(峠まで、軽四輪が通れる幅あります)があり

道なりに、右へ右へと行き、峠を越えると(峠から下りは徒歩でなければ通行できません。)

冷川持越しの集落に出ます。

尾根沿いに上に上がって行くと吾妻神社(祭神、弟橘姫命)に至ります。

明応年中、神託により、この地に遷座されたと言う。



この地域(吾妻神社近辺)に大見古城があったと話聞いた事あります。




かつてこの地域は繁栄の時

(大見郷、山ノ内上杉領は八十年間続いたとの事)

がありました。



この場所の峠の名前は(写真

地蔵峠と中伊豆町教育委員会神社寺院誌に記載あり。

この近くに寺があったそうです

寺の場所は山本、寺の名前は如意輪寺、

現地の調査の詳しい資料は確認できません。

歴史ある場所ようですが、見た限りではわかりません、

石垣が残っているところもあるようですが寺と関係ある遺構かわかりません。

以下に関係資料記載

如意輪寺跡(山本)遠景


室町幕府の関東管領又京都奉行をつとめた上杉憲栄が

山内上杉領である大見郷八幡に隠棲し字山本に一寺を建立した。

名付けて如意輪寺という。

憲栄は伊豆国の守護職も兼ねてこともあり、

葛見左近将監を称した。

応永二十九年(1422年)十月二十六日七十三歳で此の地で没した。

後に管領職となった上杉憲忠は幼名竜若といい、十二歳までここ大見郷

八幡の祖父憲栄に養育されていた。

廃寺年月日不明

追記

手前の(中伊豆中学校)テニスコート付近は昔、田んぼだった。

工事して今のようになっているのだが

工事の時、寺の礎石らしきものが出てきた(川口へいじろう氏話)との事。

この辺に名前はわからないが寺があったのかも知れない。

調べれば(地域全体に点在)埋蔵文化財になるもの掘り起こされるかも知れない。

中伊豆/関野=八田四郎の墓、屋敷跡、

八幡=大見平三家政墓、城跡大見古城、腰掛け石伝説









伊豆市、関野、百体観音










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