言 伝 え 雑 記


口 碑


擂鉢水〔地蔵堂〕


地蔵堂平野の小川に擂鉢形の岩がある。

その昔、源平の武士がここで果たし合いをした。

その時の流血が、擂鉢岩を回転し流れる水に染まって

止まなかったという。

これを称して擂鉢水といった。










貴  僧  坊 


永享の頃、行脚僧が法嗣茶屋に一泊し、片隅に端座して経文を誦していると、

夜半に村人たちが女の死人を担ぎこみ立ち去っていった。

僧は不審に感じたが、この柩の前に立って大般若経を誦していると、

不思議にもその女人は息を吹き返した。

これを知った村人たちは、この旅僧を崇め貴僧と呼んだ。

この僧は後に最勝院の開祖となった吾宝禅師であった。

禅師は最勝院開創二年ほど前にこの地に大久寺を開いていたので、

村人はこの禅師にあやかり、村を貴僧坊と名付けたという。








経  塚  (西) 


西見堂法住寺の上の道を挟んだあたり一帯を経塚という。

昔、法住寺は、平安時代の中期より天台宗の寺として

雙林山法樹寺と称した。

足利時代中期、永正元年、日蓮宗の高僧日円上人が遊化した時、

この寺を守る住職と仏法についての問答をした。

結果は日円上人に軍配があがり寺の宗旨を日蓮宗に改宗し、

日円上人が開山となったものといわれる。

この折に天台宗の経文をこの地に埋め

経塚をつくり、手厚く回向したという。

それによりこのあたりを経塚というようになった。

(法住寺縁起、より)








琢 公 院(梅木)


往昔は、伊豆国奈古谷村(臨済宗)国清寺の派下であった。 

琢公院と称し後に梅洞院と改称されている。


文明十年八月、身延十一世行学院日朝、伊東への住還に当寺を過訪し

時の住僧玉桂が日朝の教化により日蓮宗に改宗した。

寺号であった梅洞を山号とし、寺号を妙見寺とした。



(豆州志稿、他)

http://www6.plala.or.jp/hofuku23/page005.html

上記の資料をもとに、?。
過去に、日蓮宗が臨済宗よりすぐれているなどと話す者があった。


時の住僧玉桂は、梅洞院日公として当寺の開基であるが、

晩年は八幡保福院で余生を送り同院にて入寂している。

同院法号は玉桂琢公座原禅師とあり、

入寂の年月日も合致するところから同一と思われる。


(保福院記録による)









名剣狐丸〔柳瀬〕




金山〔徳永〕




お蝶淵〔元村〕













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