歴史上の大見郷の人々







http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-06.html


五十音順 人吊辞典





大見郷における上杉氏の研究
(山川勇治氏、)より抜粋


第一章 大見郷上杉能憲  内容省略


第二章 能憲、憲方、憲定讓状  内容省略、一部記載

能憲が応安六年(1373年)大見郷領主となってから

大見郷の山ノ内上杉領は八十年間続いたとの事。


第三章 大見三人衆等は上杉家臣団か?。

(内容省略)


第四章 廃宝泉寺保福院福聚院

中伊豆町八幡の幼稚園裏に廃宝泉寺(八幡村下水路山)に寺跡があり

、墓石等が残されている。

近辺を掘り返すと骨が出てきたとの話もある。

当時の墓地だった可能性あり。

国清寺末

明治六年廃寺となる。

開山は仏印大光禅師との事ながら、歴史記録からすると、

禅師の弟子が勧請開山か不明。


次にこの宝泉寺の隣地に、、保福院が狩野川台風迄あったが

台風の時の水害で流失現在中伊豆中学校裏側の山裾に移築している。

医徳山保福院臨済宗円覚寺派国清寺末 本尊薬師如来  海印を開山とす。

禅師は相模国鎌倉郡山ノ内村鎌田氏の男なり

保福院開基開山共に山ノ内出身と見ると

上杉氏に関係ある人々であったと推定するのは正しい様な気がする。

保福院開基の梅原家先祖であるが、

この梅原家は八幡の町谷に住居をもっているが、

この町谷の地名に問題がある

鎌倉の山ノ内に町屋の地名があり、

八幡の町谷は昔町屋であったとの事。


次に中伊豆町関野海雲山福聚院に就いて

海雲山福聚院関野村韮山国清寺末

旧小庵なりしを僧体林寺となす。

慶長中層虚庵中興す。

八幡の宝泉寺保福院福聚院の三寺とも韮山国清寺末で

八幡、近辺に集中して国清寺の末寺があるのも大見郷の特徴の一つである。

梅木の妙見寺もその昔改宗する前は、国清寺の末寺であったようだ。



第五章 上杉憲栄と大綱明宗

(内容省略)


第六章 上杉憲栄と大見如意輪寺

「寛政重修諸家譜」より

憲栄、竜樹丸左近将監葛見を称す。

母は北条氏。

足利義満につかえ、越後の国を領す。

十八歳の時国を捨てて出家す。

中略

但馬の国におもむき、月潭和尚の会下に参禅して法を修む。

のちに伊豆国大見郷山本に如意輪寺を健立して、ここに住む。


この山本は、現在、山本氏、山辺氏の所有地で、

山本氏宅東側庭隅に宝篋印塔三基。

山辺氏宅南側丘の上の畑の隅に同じく宝篋印塔二基。

何れも室町期のものである。

又山本氏宅の裏山に大見山本塚と云われる場所もあり、

現場には五輪塔の一部が祀られている、との事。

さて如意輪寺の寺跡であるが、相当広いものと思われる。

中略

山本氏宅東側山畑一帯は本堂跡か?。

現在山本氏宅で祀られている宝篋印塔も、

この山畑から発掘されたものであるとの事である。

又山本家北側は大見郷十六ヶ村総鎮守木宮明神が鎮座しており、

如意輪寺の寺域はこの神社も含まれていたものと思われる。


大見郷宝篋印塔(山本以外)

確認出来たもの以下の通りです。



八幡、中央公民館の敷地内
(この地域公共工事の為移転)
東側に安置一基。(大見平三家政

上記現在柳瀬實成寺 に安置。


関野、八田旧跡に二基。

城、永田家裏山に一基・

町谷、梅原氏宅入口坂下右側土手に一基。

上梅木、あんぎょうさん田の土手上に一基。

以 上 。

以下省略



軍記で読む南北朝・室町








山内氏の発祥と備後下向 

『尊卑分脉』をみると、親清の子義通に山内刑部丞と傍注がされ、

『山内首藤氏系図』では、義通の子俊通に「相模国に住み、山内滝口を号す」とある。

首藤氏は十二世紀前半の義通・俊通父子のころ、

相模国鎌倉郡山内に土着して山内首藤を称するようになったようだ。

相模国山内は源氏が本拠とした鎌倉の北方におたる地で、

首藤氏は源氏との関係から山内を獲得、開発したものと思われる。

このころ、源義朝は坂東の武士団への統率力を強めており、

首藤氏はそれを支援する存在でもあったようだ。 


医徳山保福院臨済宗円覚寺派国清寺末 本尊薬師如来  海印を開山とす。

禅師は相模国鎌倉郡山ノ内村鎌田氏の男なり

との過去帳記載あり

当方(深沢宗仁としては)の見方として開山は

上記、山内首藤氏系鎌田氏ではと思われる。


【首藤】資通─┬親清─┬義通─┬【山内】俊通─┼俊綱──経俊─┬俊晴……

(略)……清俊【鎌田氏】



大見杉原氏

柿崎氏

トップへ
トップへ
戻る
戻る