大見氏についての資料
大見氏についての資料
1 、 大 見 城
中伊豆町柳瀬に大見小藤太成家の館跡がある。
この館跡は大見川と冷川との間に挟まれたところで、東、北、西の三方は、
川に囲まれた天然の堀となり、南方は城山に接した要害の地である。
この城山に城跡がある。
館跡の標高は焼く百二十メートルで城山の高さは更に八十メートルである。
本郭は南北約二十メートル、東西約十五メートルの平地で、
その東側に幅五メートルの帯郭がある。
主部の南側は幅八メートルの掘割があり、
城の南側で、深さ十メートル、幅十五メートルぐらいの堀となり、
更に南側の高地に連なっている。
本郭の北端には袖郭がある。
又城跡の北側下四十メートルの所には諏訪神社がある。
本郭と諏訪神社と中間の付近に三段の帯郭か、あるいは堀らしきものがある。
2 、 大 見 古 城
中伊豆町八幡区の通称大見畑(だいけんばたけ)と
呼ばれる付近に大見氏の館跡があり、
その東側小高い山の吾妻神社の建っているあたりがその古城址である。
城跡は、わずかに里壕の跡と認められるものがあるが、その遺構は不明である。
この城は大見平三家政の築城といわれる。
現在中伊豆中学校とその運動場がある辺りは、
大見氏陣場跡といわれた所である。
今、(平成六年)中央公民館東側には大見平三家政夫婦の墓がある。
萩坂氏が教育長の頃
保福院にて時々お参りしていたが
以後色々な事情により柳瀬実成寺に移転。
※墓移転について災いの話あるが詳細不明。
伊豆市八幡、関野、地域寺院;と歴史雑記
3、藤原氏追悼と大見氏の活躍
文治五年(1189年)、源頼朝は、奥州の豪族藤原氏追討の軍をおこした。
このとき大見平二実政は追討軍北陸道大将軍(総指揮官)に任じられている。
また大見平次家秀は白川荘の任地から一族と共に進発した。
この戦いで大見氏のはたらきは目覚しく、このことは、諸書にくわしい。
文治五年九月藤原氏平定後、大見実政、大見家秀らは、
頼朝の命によって津軽地方(青森県)の治安維持にあたっていた。
文治六年(1190年)正月、突如、藤原氏手勢旧臣大河兼任のひきいる
三千余の反乱軍の奇襲をうけ、
城兵三百余人で防ぎ戦ったが遂に多くの家臣とともに討死した。
文治六年一月六日のことであった。
(この年四月十一日改元して健久元年)
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