八重姫(やえひめ)について。

八重姫 (伊東祐親の娘)
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八重姫(やえひめ、生没年未詳)は、平安時代末期の女性。
伊豆国伊東の豪族、伊東祐親の三女。源頼朝の最初の妻とされる。
頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母。

『曽我物語』によれば、
14歳で伊豆国へ流罪となり、在地豪族の伊東祐親の監視下で日々を送っていた頼朝は、
祐親が大番役で上洛している間に祐親の三女八重姫と通じ、
やがて男子を一人もうけて千鶴御前と名付けた。

千鶴御前が3歳になった時、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、
「親の知らない婿があろうか。

今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。
平家の咎めを受けたらなんとするのか」と平家への聞こえを恐れ、
家人に命じて千鶴を轟ヶ淵に柴漬にして殺害し、
娘を取り返して同国の住人江間の小四郎に嫁がせた。

さらに頼朝を討つべく郎党を差し向けたが、
頼朝の乳母比企尼の三女を妻としていた祐親の次男伊東祐清が頼朝に身の危険を知らせ、
頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れたという。

時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがて時政の長女政子と結ばれる事になる。

その後の八重姫については、入水自殺したとも、
北条氏や千葉氏と縁を結んだなど、様々に伝えられる。

上記の八重姫と千鶴御前に関する記述は虚構の多い『曾我物語』のみで、
頼朝の流人時代を記した史料はなく、伝承の域を出ない。

ただし、鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』の治承4年(1180年)10月19日条、寿永元年(1182
年)2月15日条に、安元元年(頼朝29歳)の9月頃、祐親が頼朝を殺害しようした所を、
次男祐清がその事を告げて、頼朝が走湯権現に逃れた事、
挙兵後の頼朝に捕らえられた祐親が恩赦によって助命される所を
「以前の行いを恥として」自害した事が記されており、
頼朝と祐親の間に因縁があった事は認められる。

伊豆の国市中条に八重姫を祀った真珠院がある。

伊東市音無町には頼朝と八重姫が逢瀬を重ねたという音無の森の音無神社、
八重姫が千鶴丸を祀ったとされる最誓寺などがある。


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