源 頼朝(みなもと の よりとも)について


源頼朝
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源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。
鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。

平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、
父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。

伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。

弟たちを代官として源義仲と平氏を滅ぼし、戦功のあった末弟・源義経を追放し、
諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。
建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。

これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府
などによる武家政権は王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。



伊豆の流人 [編集]
伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない[8]。

流人とはいえ、乳母の比企尼や母の実家である熱田大宮司の援助を受け、
狩りを楽しむなど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。

周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、
源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。

この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、
亡父義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。

そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている。

なお、この流刑になっている間に
伊豆の豪族北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女大姫をもうけている。

この婚姻の時期は大姫の生年から治承2年(1178年)頃のことであると推定されている。

なお、フィクション性が高いとされる『曽我物語』には次のような記載がある。
仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。

ここでは
後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。

しかし祐親が在京の間にその三女八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、
祐親は激怒し平家への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、
八重姫を江間小四郎の妻とし、頼朝を討たんと企てた。

祐親の次男伊東祐清からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。

頼朝29歳頃の事件であった。

31歳の時、頼朝監視の任に当たっていた北条時政の長女である21歳の政子と通じる。

時政は山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、
政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となった。



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