源 範頼(みなもと の のりより)

源範頼
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源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。

遠江国蒲御厨(浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかんじゃ)、
蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。

その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。
治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、
義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。

その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、
のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。

建久4年(1193年)5月28日、曽我兄弟の仇討ちが起こり、
頼朝が討たれたとの誤報が入ると、
嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。

この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。
(ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、
また曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、
政子の虚言、また陰謀であるとする説もある)

8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。

しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、
これを聞いた範頼は狼狽した。

10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。
気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、
明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、
しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。

全く陰謀にあらず」と述べた。

次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。

疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を伊豆に流した(『吾妻鏡』)。

 
修善寺温泉場の範頼の墓8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉される。

『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、
『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。

8月18日には、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして
結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって直ちに討伐され、
また20日には曾我祐成の同母兄弟、
京の小次郎という人物が範頼の縁座として誅殺されている(『吾妻鏡』)。

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