源 頼家(みなもと の よりいえ)



源頼家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  

源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男。母は北条政子。

父頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。

若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、
疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、
頼家の独断は抑えられた。

合議制成立の3年後に頼家が重病に陥ると、
頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、
北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡する。

頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。

頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。

家は伊豆国に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、
北条氏の手兵によって殺害された。

享年23(満21歳没)。『吾妻鏡』はその死について、
ただ飛脚から頼家死去の報があった事を短く記すのみである(7月19日条)。

殺害当日の日付の『愚管抄』によると、入浴中を襲撃され、
激しく抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえてようやく刺し殺したという。

頼家の子には四男一女がおり、嫡男一幡は比企能員の変で北条氏に殺害され、

残された男子はそれぞれ出家したが、母が三浦胤義と再婚した
三男栄実は、建保2年(1215年)に和田氏の反乱に擁立されて自害に追い込まれ、

三浦義村に預けられていた次男公暁は建保7年(1219年)に実朝暗殺を実行して討たれ、

四男禅暁は
公暁に荷担したとして承久2年(1220年)に北条氏の刺客によって京で殺害された。

女子の竹御所は北条氏が擁立した4代将軍藤原頼経の正室となるが、
高齢での出産で死去し、頼家の子供達はすべて幕府政争の渦中で非業の死を遂げている。

幽閉先の修禅寺では近隣の子供達と付近の山々を遊びまわったりして
子供の面倒見は良かったらしく、
地元の有志によって子を思う頼家を偲んだ将軍愛童地蔵尊が建てられている。
          ↓↓↓↓


■ 頼家を祀った愛童将軍地蔵尊と横瀬八幡神社

 駅からすぐの狩野川に架かる赤い鉄橋「修善寺橋」を渡った右側の袂には、
6体の小さい童地蔵を従えた背丈2.5メートルほどの「愛童将軍地蔵尊」が目につきます。

源氏から政権を簒奪した北条時政の陰謀で
非業の最期を遂げた二代目将軍頼家を祀った地蔵です。

頼家は、近くの月見が丘にしばしば村の童を集めて相撲をとらせ、
鎌倉のわが子を偲びました。

立て札には「伊豆に旗挙げして伊豆を舞台に滅びゆく源氏や実に哀れ」という題があり、
その次の文は猜疑心の強い頼朝が落馬事故がもとで急死したのち、
鬼のような時政がいかにして孫の頼家を亡き者にしたかをせつせつと綴っています。



 土地の有志の人々がこの地蔵尊を建てて毎年8月に地蔵祭りを主催しているのですが、
立て札の最後の
「嗚呼幾く年の星霜も 将軍地蔵は日本一 横瀬に残る御仏の 功徳の程こそ尊けれ」
という詩が有志の人たちの心情をよく物語っています。

 そこから温泉郷へ向かって道を上がって行った右側、「横瀬八幡神社」が
ひっそりと建っています。

頼家公の束帯姿の像が祀ってあった由緒ある神社で、
もっと昔はここに修禅寺の参門があり、
現在、指月殿に安置されている2体の仁王像があったといわれます。


との記載あり。


トップへ
トップへ
戻る
戻る