鎌倉円覚寺紅蓮抄 


鎌倉円覚寺紅蓮抄 [単行本]

鎌倉府君足利基氏の懇請を受け
京都天龍寺より鎌倉円覚寺に入籍した周信時に35歳。
56歳で将軍足利義満の懇請により再び京へ帰洛するまでの
武門禅門いずれ劣らぬ下克上騒乱20年の中に生きた、人間義堂周信の心の懊悩。

京都天竜寺より鎌倉円覚寺に入籍した夢窓派臨済僧・義堂周信は、
将軍足利義満の懇請により再び京へ帰洛するまでの20年、
武門禅門いずれ劣らぬ下克上騒乱の中に生きた。

彼の日記を縦糸に南北朝中期動乱の時代を描く。

義堂周信
経歴土佐国高岡(現:高知県高岡郡津野町)の生まれ。
14歳で剃髪、はじめ台密を学ぶ、後禅宗に改宗し上京し夢窓疎石の門弟となる。
このとき「周信」と安名された。

1359年(延文4年)に幕府が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏に
招かれて鎌倉へ下向し1380年(康暦2年)まで滞在した。

基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、
基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務めた。

この間、
臨川寺の五山昇位  問題や渡諷経事件

の解決に尽力し
その公明正大、厳正中立な態度で各方面に感銘を与えた。

帰京後、3代将軍足利義満の庇護のもと相国寺建立を進言し、
建仁寺住職、1386年には南禅寺の住職となり、等持寺住職も務めた。

春屋妙葩や絶海中津と並ぶ、中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧とされる。

トップへ
トップへ
戻る
戻る