3、無学祖元について、その来歴と教化の態度 

3、無学祖元について、その来歴と教化の態度

まず、無学祖元その人について紹介したい。

無学祖元は、俗姓は許、諱は祖元、字は子元、後に無学と号した。

1226年、慶元府に生れる。

早くに出家し、径山無準師範以下諸知識に歴参している。

1269年、真如寺の住持になった後、天童寺などに歴住した。

1279年、北条時宗の招聘により来日し、建長寺に住した。

その後、円覚寺を開くなど日本仏教界で活躍し、南宋禅の普及に勤めた。

1286年、60歳で没するまで

「度する弟子三百、余嗣法者衆、皆光明盛大」

と言われるように多くの高僧を育てた。

門下に高峰顕日などの高僧がいる。

死後、仏光円満常照国師を追贈され、一般に仏光国師と呼ばれる。

無学祖元に関する史料は語録として、
『仏光円満常照国師語録』(一真?徳温ら撰、1367年刊、以下『仏光語録』とす
る)があり、他に『無学禅師行状?仏光禅師行状』『仏光円満常照禅師年譜』一
真?徳温撰(『仏光語録』附)がある。

伝記には『元亨釈書』(虎関師練撰、1321年刊)巻8?釈祖元伝、『延宝伝燈録』
(師蛮撰、1678年刊)巻2?子元祖元伝、『本朝高僧伝』(師蛮撰、1702年刊)巻
21?祖元伝、などがある。

このうち『仏光語録』は
“語録中の語録”(晦岸常正和尚)と言われる
すぐれた語録である。

一方で『元亨釈書』は書全体の内容に疑問が持たれており、無学祖元の伝に
ついてもその出自や事績に語録などと異同が見られる。

後代に編まれた『延宝伝燈録』、『本朝高僧伝』両書の本伝は『元亨釈書』を引
いているため、無学祖元の教化活動を明らかにするには『仏光語録』に拠ると
ころが大きくなる。

本論では大正蔵所収のものを典拠とした。

無学祖元の人物像について玉村竹二は以下の様に評している。
曰く“人を接化するのに極めて懇切丁寧”である。

これは『仏光語録』巻9「告香普説」などに見られ、同普説では、身分の低いあ
る武士が無学の下を訪れ、「いくら学んでも仏法が一向に理解できぬ」と涙なが
らに訴えるが、無学は優しく懇切丁寧に粘り強く説き、ついにこの武士は悟りを
得るというエピソードが紹介されている。

また、“無学祖元という人は…自らに対して厳格にして他人に対して憐愍
に満ち、懇切丁寧なる一人格、些か感傷に堕するかとさへ思われる浪漫的性
格さへ具備している”といい、同時に“この人ほど自己を告白する禅僧は稀であ
る”とされている。

この様な玉村氏が称した
無学の為人と教化の態度は様々な史料に見てとれる。

無学が率直な宗教指導者であったことは、
日本という“外国”で宗教指導を行うにあたって、女人往生という問題に直面し
たときいかに行動したか、その根底を考えるうえで無視できない要素であろう。

参禅者には北条時宗夫人のような高貴の女性も多く、
曲学阿世の輩であれば時流に合わせて自らの教説を変えているであろう。

その点で、
元軍の刃に曝されながら蕭然としていたという無学は自らの教説を権門に阿っ
て変えるような人物ではない。

また、
その懇切丁寧な指導は
一人一人の参禅者に対して向き合う姿勢であろうから、
教化活動の実態を知るうえで語録の意義を高めている。

無学は1979年に渡来することになるが、これは北条時宗が、蘭渓道隆の死後
建長寺の住持を求め、徳詮?宗英を派遣[13]したのを受けてのことである。


やや本論の主旨とはずれるが、この無学来日の経緯をめぐっては二種類の意
見が示されてきた。


従来、玉村氏らによって無学祖元を南宋滅亡以降元朝の支配を嫌った亡命僧
と捉える考え方が示されると、これが一般に知られ、無学が蒙古の襲来と戦う
北条時宗の軍師であったかのような解釈がなされてきた。

これに対して西尾賢隆氏は、最初は無学ではなく別人を招請される予定であっ
たことや、無学が度々帰国の意志を示していることから亡命僧とは言えないと
反論している。


西尾氏は『仏光国師語録』巻四「接荘田文字普説」を引いて、
“「老僧、日本の招き趣くに臨み、多く衲子有り、衣を牽き泣を垂る。

我、諸人に向って道う『我、三両年にして便ち回らん、煩悩を用いざれ』と」とあ
るが、両三年したら帰ろうという亡命があるであろうか、そうはいえまい。

”(西尾1989)としている。しかし、“両三年したら…”を含む箇所、には「老僧臨
趣日本之招、多有衲子、牽衣垂泣。我向諸人道、我三両年便回、不用煩悩。

吾今与諸兄説、諸人見老僧、却作等閑、甘悠悠度了歳月。不知老僧?掉了大
唐多少好兄弟。要来開諸兄眼目。中間或有一箇半箇、直下如生獅子児哮吼
壁立万仭。方可与仏祖雪屈方称我数万里遠来之意。檀那建此道場、堂宇高
広四事供養種種妙好。(中略)若有幾人参請眼目開、契得老僧意者、亦可以
鎖我思郷之念、慰我為法求人之心、千万勉力…」とあり、

修行を等閑にする弟子達を叱咤する言葉であり、
西尾氏が言うような無学が帰国の意志を示した言葉とは取りにくい。

無学が亡命僧かそうでないかを論ずるのは本論の目的とするところではなく、
俄には断じがたい問題であると思われる。


ここではむしろ、
「懇切丁寧な教化」「本心を吐露する」という
無学の人物像を
彷彿とさせる内容であるとみたい。

もっとも強調したい点は、
無学祖元という人物がきわめて率直に、
かつ丁寧に参禅者に向き合って
指導にあたったという点である。


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