5、無学と『法華経』観音信仰 

5、無学と『法華経』観音信仰

無学は『法華経』を引き、

「諸小乗皆蒙授記。龍女献珠成仏。大涅槃経体円極。無処不周」
(同上、語録巻6)として大乗の立場を明らかにしている。

禅宗は“不立文字、教外別伝”といい本来根本とする経典を持たないが、
「夢中問答集」(無学法嗣高峰顕日の弟子夢窓疎石と足利直義との問答集)に
よれば、「唐土の禅院には毎朝粥の後、大悲咒一遍なむと誦するばかりなり。

これ則ち座禅を本とする故なり。
…建長寺の始めには、日中の勤めはなかりけり。

蒙古の襲い来りし時、天下の御祈りのために、日中に観音経をよみたりける。

そのままにしつけて、今は三時の勤めとなりたり。

かようの勤めも、禅家の本意にはあらねども、年来しつけたることなれば、後代
の長老たちもとどめ給ふことなし」とあり、『観音経』(『法華経』「普門品」観音の
功徳?利益を具体的に詳説した経典)の読誦は「無学によって儀則化された」
(山藤2002年)ことが明かである。

なお、『元亨釈書』巻八淨禅三之三釈祖元伝に
「四年春正月、平帥来謁。元采筆書呈帥曰、莫煩悩。師曰、莫煩悩何事。元
曰、春夏之間博多擾騒。而風纔起万艦掃蕩。願公不為慮也。果海虜百万寇鎮
西、風浪俄来一時破没。初元在雁山、定中観音大士現形曰、我将?来取汝。
乃示日月二字。元起詣像前卜籖。亦得日月二字…語曰、百万虜寇。天兵助
順、豈不勝耶…」とある。

これについては、「『礼記』「曲礼上」、「故日月以告君」を典拠とし、婚姻の日取
りを決めること」[15]とされる意見もあるが、やや強引な解釈に過ぎよう。

ここでは、『元亨釈書』著者の主張として「無学が時宗に蒙古襲来を予言し、そ
の根拠として無学が観音の擁護を得て知り得たからだ」としたものとしたい。

 無学と観音のつながりについては、『無学禅師行状』に「母陳氏、嘗夢一僧襁
褓嬰児以授。遂懐妊。母以累重不楽意。夜午見、一白衣女子登牀、腹曰、此
児佳男子、善保勿棄。及誕白光耀室」とある。

無学の出身地慶元府は観音の霊場普陀山に近く、
白衣を纏った女性は典型的な観音の像容であることから考えて
無学は強い観音信仰を持ったことは明らかである。

無学は女人往生を積極的に支持していることは前節ですでに述べたとおりだ
が、無学の明確な『法華経』尊重の態度から見て、
女人往生の根本と成ったのは『法華経』であり、観音信仰と見るべきである。

『法華経』(提婆達多品)には
「龍女は五障?垢穢ゆえに女性は成仏できないとする
舎利弗の眼前で釈迦に宝珠を献上し、

変成男子して成仏を果たした」とあり、『法華経』は変成男子による
女人往生の重要な根拠となっている経典である。

 従って、『法華経』の重視から見れば、
無学の女人往生説は“変成男子”の域を出ていないと言うべきだが、
それについてはなお検討の余地があるようにも思われる。
今後の課題としたい。
 
小結

 以上のことから、
無学は宋朝から来化し、多くの女性を含む僧俗を教化した。

強い観音信仰を持ち、
“変成男子”による女人往生の根拠となる「法華経」読誦を進める一方で、

その法語を見ると
、男女の別ない往生を説いた形跡も見られる。

無学は多くの女性を教化し、その門下からは無外如大が出て、
尼寺再興を果たした。

無学の教化は“変成男子”についてはなお考慮すべき点をのこすものの、

女人往生が否定された前時代に反して、
女人往生説を肯定しており、画期的なものと言えるだろう。

これは渡来僧無学の日本にあたえた影響の一つと見ることもできるだろう。
 
参考文献一覧
鷲尾順敬『鎌倉武士と禅』、1916年、日本学術普及会
木宮泰彦『日華文化交流史』、1954年、冨山房
松野純孝「鎌倉仏教と女性」(『印度学仏教学研究』20)1962年
玉村竹二「新仏教教団の発展」(『岩波講座日本歴史』7)1963年、岩波書店
玉村竹二『五山文学』、1966年、至文堂
ミシェル?スワミエ「血盆経の資料的研究」(『道教研究』1)1965年、人文書院
蔭木英雄「五山文学の源流」(『国語国文』)1972年、中央図書出版社
川添昭二「鎌倉時代の対外関係と文物の移入」(『岩波講座日本歴史』6)1975年、岩波書店
森 克己『新訂 日宋貿易の研究』、1975年、国書刊行会
玉村竹二『日本禅宗史論集』、1976年、思文閣
川添昭二『蒙古襲来研究史論』、1977年、雄山閣
広瀬良弘「鎌倉期の渡来僧」(『歴史公論』9巻2号)1983年、雄山閣
魏 栄吉『元?日関係史の研究』、1985年、教育出版センター
阿部肇一『中国禅宗史の研究』、1986年、研文出版
芳賀幸四郎「渡来禅僧とその業績」(『中世日本の禅とその文化』)1987年、鹿野山禅青少年研修所
浄土真宗伝道院特定課題研究会『女人往生』、本願寺出版社 1988年
西尾賢隆「鎌倉期における渡来僧をめぐって」『日本歴史』(491)1989年
転川力山「道元の《女人不成仏論》について」(『駒澤大学禅学研究所年報』)1990年
バーバラ?ルーシュ『もう一つの中世像』、1991年、思文閣
川添昭二『対外関係の史的展開』、1995年、文献出版
山藤夏郎「無学祖元における観音信仰」(『日本研究』15)2002年
原田正俊「禅宗と女性」(『国文学解釈と鑑賞』第69巻6号)2002年
勝浦令子『古代?中世の女性と仏教』、2003年、山川出版社
西口順子「女人成仏説にみる古代中世の女性と仏教」(『日本仏教の射程』)2003年、人文書院
舘 隆志「鎌倉期における禅宗の尼僧」(『禅文化研究所紀要』29)2008年
舘 隆志 「兀庵普寧に参じた尼僧をめぐって」(『日本と《宋元》の邂逅』)2009年、勉誠出版 
 


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[1] 大越愛子『性差別する仏教』(1990年法蔵館)

[2] 古代において『日本書紀』は差別のあり様を示している。イザナギ?イザナミの最初の子ども、ヒルコとアワシマは
女神イザナミが先に声をかけたため、障害を持って生まれた。これは女性差別と同時に障害者差別を示す例である。

[3] 『日本三大実録』880年5月19日条に「大和西陵尼寺を西大寺に摂領せしめる」などとある。

[4] 高取正男『神道の成立』(1979年平凡社)

[5] ミシェル?スワミエ「血盆経の資料的研究」(『道教研究』1、1965年)

[6] 母系制から父系制への移行に関係するか。

[7] 松野純孝「鎌倉仏教と女性」(『印度学仏教学研究』20)によれば、法然が弾圧を受けた際、弾圧対象となった家
屋は多く女性によって提供されていたとされる。

[8] 「女犯」は女性を穢れととらえる事を前提としていると考えられる。

[9] 『鎌倉遺文』11800号

[10] これが変成男子説に対する批判であるかについては不明。

[11] 転川力山「道元の《女人不成仏論》について」(『駒澤大学禅学研究所年報』1990年)

[12] バーバラ?ルーシュ『もう一つの中世像』(思文閣1991年)

[13] その書状に言う

「時宗意を宗乗に留め、積むこと年序有り。
梵苑を建営し、緇流を安止す。但だ時宗毎に憶へらく、樹に其の根有り、水に其の源有りと。
是を以って宋朝の名勝を請い、此の道を助け行わしめんと欲し、詮英の二兄を煩わす。

鯨波の険阻を憚ること莫く、俊傑を誘引し、本国に帰り来るを望みと為すのみ。不宣。」
(訓読は山口修『蒙古襲来 元寇真実の解明』によった)
(「日本国副元帥平時宗請帖」『仏光国師語録』巻3)

なおこの書状原本は円覚寺に伝存し国宝。

[14] 夢窓疎石、相国寺所蔵(『日本高僧遺墨』2、1970年、毎日新聞社)

[15] 山藤夏郎「無学祖元における観音信仰」(『日本研究』15)2002年



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