老師への思い


色々ご指導頂きましたが、自分の未熟者ゆへ、煩悩のまっただ中で生活しています。






仏光国師


電光影裏斬春風( 仏光国師語録拾遺) でんこうようりにしゅんぷうをきる
 

「無学祖元の女性教化と女人往生観」


無学は宋朝から来化し、多くの女性を含む僧俗を教化した。


強い観音信仰を持ち、

“変成男子”による女人往生の根拠となる「法華経」読誦を進める一方で、

その法語を見ると、男女の別ない往生を説いた形跡も見られる。


無学は多くの女性を教化し、その門下からは無外如大が出て、尼寺再興を果たした。


無学の教化は“変成男子”についてはなお考慮すべき点をのこすものの、

女人往生が否定された前時代に反して、女人往生説を肯定しており、

画期的なものと言えるだろう。



これは渡来僧無学の日本にあたえた影響の一つと見ることもできるだろう。


無学祖元の人物像について玉村竹二は以下の様に評している。

曰く“人を接化するのに極めて懇切丁寧”である。

これは『仏光語録』巻9「告香普説」などに見られ、

同普説では、身分の低いある武士が無学の下を訪れ、





「いくら学んでも仏法が一向に理解できぬ」と涙ながらに訴えるが、
無学は優しく懇切丁寧に粘り強く説き、

ついにこの武士は悟りを得るというエピソードが紹介されている。

また、“無学祖元という人は…自らに対して厳格にして、
他人に対して憐愍に満ち、懇切丁寧なる一人格、
些か感傷に堕するかとさへ思われる浪漫的性格さへ
具備している”といい、
同時に“この人ほど自己を告白する禅僧は稀である”とされている。

この様な玉村氏が称した無学の為人と教化の態度は様々な史料に見てとれる。

無学が率直な宗教指導者であったことは、
日本という“外国”で宗教指導を行うにあたって、

女人往生という問題に直面したときいかに行動したか、
その根底を考えるうえで無視できない要素であろう。

参禅者には北条時宗夫人のような高貴の女性も多く、
曲学阿世の輩であれば時流に合わせて自らの教説を変えているであろう。

その点で、元軍の刃に曝されながら蕭然としていたという無学は
自らの教説を権門に阿って変えるような人物ではない。

また、その懇切丁寧な指導は一人一人の参禅者に対して向き合う姿勢であろうから、
教化活動の実態を知るうえで語録の意義を高めている。



修行している時、色々と迷いがいっぱいで、毎日が苦痛の日々でした。
開山塔や、開山堂に行って色々と独り言、言っていた記憶があります。

只黙って見守ってくださった、国師様に感謝いたします。


http://okadosblog.blogspot.jp/2011/09/blog-post_21.html



※内容(情報)についてはすべてが正しいとは限りません。
興味がある情報についてはその都度確認願います。



朝比奈宗源老師

「雑念や妄想はなくならない。

なくならないものをなくそうとするからまたひとつ煩悩になる。

煩悩は、整理すべきもの。煩悩は、整理すべきもの。」

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山田無文老師
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%84%A1%E6%96%87

【山田無文(臨済宗・神戸祥福寺)】
臨済宗大学禅宗学科卒業。チベット探検僧河口慧海に学ぶ。
花園大学学長、妙心寺派管長。
毎年遺族と赤道直下の島で戦死者の遺骨収集を行う。
著書多数。1988年、88歳で遷化。


現代坊主は葬儀屋の親方である
「法とは何か。人民を拝み民衆に奉仕する実践です。(略)
寺院住職は葬式と法事で手が回らん。

ヘルメットかぶってバイクに乗り、葬式にゆきおる。忙しい。
葬儀屋の親方だな。だから寺の息子さんが坊さんになるのを嫌がる。
当然だ。こんな不名誉な職業嫌がりますよ。

つまり今日の仏教教団は、仏教を何も教えないところなのです。
立派な本山があり、管長がいる。

しかし、管長が何を教えられるのか。
儀式に出るだけだ。

緋の衣に金襴の袈裟を欠け、ゾロゾロ並んでお経を読む。

それだけやないか。ありゃオイラン道中や。私はそういっとる。

仏教やない。(略)

しかも人間平等を説かれた釈尊の教えを継ぐ僧の社会に僧正とか僧都とかいう階級が
あって、衣の色まで違うとは笑止千万です。(略)

現在のような坊さんばかり二十万人いたって、仏教は国民のために生きやせん。

日本の教育は根幹思想の欠如に問題あり

「みんながあってこその自己なんです。これが人生の根本だ。

この心を押し広めれば、鳥も殺すな、虫一匹殺すな、物を粗末にせず、いのちを大切に
せよ、ということになる。(略)

教育の不毛と、そのよりどころを失った教師に育てられてきたからです。

自由主義国にはキリスト教がある。中国には儒教と毛沢東主義がある。

アジア・アフリカにはイスラム教があって根幹をなしている。日本には今、なにもない。」

http://sonbunji.heavy.jp/culture/meimonku/meisou10.html#yamada

我が名付け親と(父が老師にお願いして名前を付けて頂いた)聞いている。

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足立大進老師

「仏教の根本の教えは、『縁起』の法則である。

命は点ではない。先祖のご縁のお陰。この身、一身に集まっている。

生きているのではない。限りない縁によって、生かされているのだ」。

厳しい修行に裏付けられ説法は明快で、言葉自体がエネルギーを発している。

だから、人の心に染み込み、元気とか、生きる勇気のようなものを与えてくれる。

http://kitakama-yusui.net/tokusyu/zen-1.html

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横田南嶺老師


円覚寺・居士林だより
円覚寺・居士林での座禅会等のお知らせ


無門関十二則厳喚主人。老師は、語られた。

<主人公>とは、自分の真心のこと。

自分の真心に問いかけて、
自分で判断せよと。

お釈迦様の最後の教えは、「依頼心をなくせ」

だそうだ。何が正しい事か判断するのは、最終的には、自分の真心。

自分の真心に照らし合わせて、正しい教えは、受け入れ、
そうでなかったら、捨ててもいい。

誰もが持つている真心を、はっきりと気付くのが、坐禅の修行。

真心は、慈悲の心。


円覚寺・居士林だより
円覚寺・居士林での座禅会等のお知らせ
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上記内容より抜粋

老師は、洞山五位頌にちなんで、修行の階梯を説明された。

一、 無(平等、死、理想、正)になる。                            

 二、 それから、有(差別、生、現実、偏)に戻って来る。        

 三、 慈悲のはたらき。                                                   

  四、 理想と現実、生と死とのせめぎ合いの中で、力を尽くして働く。

 五、 そして、最後は、元の木阿弥。                                   

  奥深きこと限りなし。




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